記憶の随筆

水辺の記憶-手の延長線(13

ブラックバス

 

 ある日、先述した釣り具の量販店へ行くと、当時はまだ新しかったダイワ・シルバークリークシリーズのスプーンが目に入った。小振りのスプーンで本来は渓流用だろうがそれを買い込み、またダム湖へ向かおうと思った。
 次の休日、あるダム湖のほとりに立って水面を眺めると30cm~40cmほどの魚が泳いでいるのが見えた。魚種はさっぱり分からなかったが時折通りかかる数匹の群れの先頭に5gほどのスプーンを投げた。数投投げると、群れの一匹が猛然と食ってきた。目の前でスプーンを咥えたので一呼吸おいてロッドを立てると掛かった魚が水面で暴れた。慌ててがむしゃらにリールを巻き、岸へずり上げて見ると30cmほどの見たこともない魚だった。これはブラックバスではないかと思い、自宅で釣り雑誌を開けたとき確信が取れたのだった。
 あのダムはブラックバスがいるのだ・・・。それがわかるとルアー釣りの対象はマスからバスに変わっていく。

 

 

 その頃は、給料のほとんどを釣り具に捧げることが当たり前になっていた。高価な竿やリールを買うというよりもそこそこの値段の釣り具をたくさん買うという感じで釣り具はどんどん増えていった。
 そのダムにはブラックバス(ラージマウスバス)がいることがわかると、職場の後輩などを誘って行くようになる。釣り仲間が増えてからのメリットは、何といっても情報の共有だろう。「プラスティックワーム」を使うようになり、釣り雑誌を定期購読するようになったのもその頃で、新しい釣り具もますます増えていくのである。

 

2022052212596482 1990年・初めてのブラックバスではないが、初心者にはこのサイズが釣れるとかなり嬉しい。ロッドはおろしたての「シマノ・バンタムエクセージBXG-2551-2」

 

水辺の記憶-手の延長線(12

冬眠の時期

 中学に入って交友関係も広がるとやはり釣り好きはいるもので、部活仲間と数人で釣りに出掛けることが増えてきた。さすがに渓流釣りをするヤツはいなかったが自転車で1時間以内の場所には沼地や池がいくつかありそこでフナを釣っていた。
 湖沼ではまだブラックバスが珍しく釣りと言えばマブナ・ヘラブナだった。つっとり池・めいじ池・保々溜めなどは当時カッコよかった「ヘラ浮き」の使える釣り場だった。もちろんベテランのヘラ師の格好は出来なくても、竿・竿受け・フラシを使って釣りの出来る釣り場があった。これらの釣り場は、現在近くを通っても釣り禁だったりブラックバスで有名だったりして様変わりしている。
 中学高校となってくると他の遊びに目が行くことが多くなり、とりわけ音楽に傾倒してゆく事でますます魚釣りからは離れてゆくことになっていく。釣りに関しては「冬眠の時期」である。

 釣り竿を一度も握ることもなく高校を卒業し、車の免許を手に入れてもロックバンドを組んだりして全くと言っていいほど竿を持つことはなかった。
 23歳の頃だろうか、四日市市に大きな釣り具の量販店が出来、何かのきっかけか覗いてみると、様変わりした釣り具に目を奪われた。簡単に手に入るようになったルアーを買い込み、早速向かおうとしたのが湖だった。
 昔読んだ、「釣りキチ三平・O池の滝太郎」と、先述した野洲ダムでの初ルアーフィッシング(結果はボーズ)をなんとか挽回するため湖水でルアーを投げ、マスを釣りたかったのだ。

 ところが近隣にマス類が住む「湖」などは存在しなかった。まず自然湖が無い。せいぜい足場の少ないダムである。少なくとも岐阜県や長野県にでも行かなければ釣りとして成立しないと思った。しかし、まだその頃は遠征する知識やノウハウを知らなかったので、情報収集源は雑誌や地図を眺める程度。ダメもとでダムのある自治体の観光課へ電話して聞いた事もあったが大した収穫は無かった。とりあえず、近くで行けそうなダムを地図帳からピックアップして決行した。

 10年ぶりぐらいに野洲川ダムの辺りをクルマでウロウロすると、ダムの下流にもう一つ大きなダムがあった。青土ダムと言うそのダムへの流れ込みで釣りをするため、クルマを駐車した辺りからガレ場を降り、当時まだウェーダーも持っていなかったのでザブザブと川を渡った。そのダムは1989年の完成らしく、自分が中学生の時にはまだなかったダムだ。
 現場でタックルの準備にかかるが、ロッドは小学6年生の時にお年玉で買ったダイワの「ニューサンスピン5.5ft」。初めて買ったグラスファイバーのルアーロッドだ。
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ダイワのニューサンスピン5.5ft 初めて買ったルアーロッド。今ではトップガイドが錆びておりラインを滑らすのは危険だ。

 
 ガレ場の上からのぞいた時に大きな魚が泳いでいるのが見えたのでその対岸に渡りルアーを投げた。魚種はさっぱり分からなかったがとりあえず手持ちの小さなスピナーを投げてみた。川岸に降りてからは魚の姿なんぞちっとも見えなくなっていたので、投げては巻き、投げては巻きの繰り返し。

 今でも覚えているが、その時釣れる気が全くしなかった。流れの中での釣り方がわからない。立ち位置から下流にルアーが流れるとロッドに負荷がかかり、スピナーのブレイドが回転しているのが分かる程度だ。にもかかわらず、いきなり何かが掛かって生き物の躍動がロッドに伝わってきた。
 てっきり、上から見えた大きな魚だと思い込んでいたが、それはこの先付き合いの長くなる「カワムツ」という魚だった。
その後どの渓や川筋へ出かけても外道としてお馴染みになってゆく。

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今年釣ったカワムツ。今でも付き合いは深い。。。

 
 しかし、ルアーロッドとルアーを使って初めて釣った魚だったので素直にうれしかった。ただ、ルアーで釣れる魚はマスかバス類に限られると、信じ込んでいた自分はカワムツが釣れたことが大きな驚きだった。ついに興奮は驚きと共にやってきた。かくして再び釣りの世界へ埋没する事となる。 つづく

水辺の記憶-手の延長線(11

アマゴの穴釣り

 田光川の釣り大会よりもう少し前、小学校高学年の頃、アマゴを求めて地元の渓流へ行くようになるがやはり釣りのバイブルは『釣りキチ三平』だった。原作者の矢口高雄先生の郷里が秋田県だったためか、渓流でのシーンも多く描かれている。
主人公三平が渓流の落ち込み付近へエサを投入し、そのポイントを仕掛けが上手く流れていく。
仕掛けの目印が、「ツツツ・・・」と流れて直後フッと止まりその刹那、三平がバシッとアワセを入れると水面からヤマメが躍り出る。この場面を何度も凝視した釣り少年は全国に数えきれないほどいるだろう。
 そんなシーンを見て興奮していた少年(自分)は、「これが渓流釣りか!」と脳裏に焼き付くことは容易かった。実際、単行本を読み漁った次の休みの日には意気揚々と地元の渓流へ駆けていた。

 頭の中に叩き込まれた、三平のヒットシーンは現場でもろくも崩れ去る。実は落ち込みにエサを投入するも「ツツツ」と流れる距離が少ない事に釣り場で気付く。全く無いわけではないが、渇水気味だと水量が落ちてますます流れにくい。
これは地域性というか地形というか、渓流のパターンが違うわけで、三平がヤマメを釣っていた川は小滝もあるがややフラットな景観で里川に近いシチュエーション。私の地元の渓流は「山岳渓流」と言われるパターンで小滝の連続が多い。(それなりにツツツは出来そうだが当時の自分には無理でした)
 現場に合わせて釣りをするため、大きめの落ち込みでは仕掛けに重めのオモリを噛ませて道糸を弛ませて底へ送り込む。竿先が水面に近づくほど仕掛けを沈めて暫く後、「感」で竿を立てると放流モノではないサイズの綺麗なアマゴが躍った。

 ある日、当時釣り仲間だった友人と連れ立って近鉄湯の山温泉駅付近の三滝川へアマゴ釣りに出かけた。そのあたりは当時から平っ川だが、以前は流れも今より変化があり、石も今より大きかったと記憶している。
上流部ほどの山岳渓流ではないので多少は「ツツツ・・」が出来そうだったがあまり変化がなく釣れそうにない雰囲気。

 周辺を二人で暫く釣ったが、流れの中にちょっと気になる「石」があった。それは大きさにして30cm~40cm。何の変哲もない水面からちょっと顔をだした石。ただ、その石の下は横に並んだ小振りの石との間に少しエグレがあるようだった。経験があったわけでもないが何やら気になりエサのミミズをそのエグレに入れようと試みた。しかしミミズのコントロールが難しく、上手くいかないのでオモリを徐々に重くし、エサとオモリの間隔をもっと短くしてやっとミミズが吸い込まれ、続いてオモリも隙間へ消えてゆくその情景は今でも鮮明に記憶している。

 アタリがあったわけでもない、例の「感」で竿を立てる(というか上流側へ引っ張り上げる)と、手元に振動が伝わる。石のエグレの隙間から白い腹が躍動しているのが見えた。しかし隙間から魚をひっぱり出すことが出来ない。力ずくで引けば糸が切れるかもしれない。頭に血が昇った自分がとった行動は・・・、竿を避けておいて仕掛けのオモリのあたりを手で持って、石の隙間へ手を突っ込み魚を鷲掴みにして引っ張り出した。今にして思えばなんと野蛮な方法であったかと思う。手が隙間に入れば他にも方法があったであろうが、その時は考えも及ばなかった。

 目に見えるポイントだけでなく、ポイントではなさそうな場所の見えないポイントを探すことは、ある程度の経験がある釣り人ならば当たり前のことかもしれないが、こういった経験は普通の経験よりもはっきりと記憶に残るのだろう。
 以降、様々な釣り場に出掛けて「あやしい石の隙間」を探すようになった。先述の田光川で釣った2匹目のアマゴはこうして手に入れたものだった。

 渓流釣りのセオリーに従った釣り方でなく、以前書いた「引き釣り」そしてこの「穴釣り」は、海釣りでも湖氷のワカサギ釣りでもなく渓流のアマゴ釣りの方法だというと真面目な渓師からは叱られるかもしれない。ただ、常識を反対側から見て考察することは、何も釣りだけでは無いような気がする。また、大人になってフライフィッシングに傾倒するようになってから、この穴釣り法をアレンジしたような釣り方でイワナを釣り上げる事もしばしばあったが詳細は後々に書いてみたいと思う。   つづく

水辺の記憶-手の延長線(10

田光川での鱒釣り大会

 12か13歳の頃だったと思う。ある日、菰野町内の田光川で日曜日にマス釣り大会があることを新聞の記事で見つけた。
まずは準備のために竿のチェック、と言っても当時持っていた2本の渓流竿のうち長い方の「ダイワPC琥珀4.2m」を準備。そして今ではちょっと太めに感じる道糸1.0号ハリス0.8号。目印はセルロイド製(?)の矢印型。エサは例の畑から調達したミミズを捕って来た。

 大会当日は受付に間に合うよう、自宅から約10km近くある田光川の橋のたもとまで自転車で駆けた。
いよいよ大会がスタートし、事前に放流されたニジマスとアマゴを狙う。たしか1匹の最大サイズで争ったと記憶する。スタート直後はなかなか釣れなかったがそこは放流物。徐々に魚が川に慣れてくるとそこらじゅうで竿が曲がる。自分もそこそこ掛かるがなかなか大きいのは釣れない。
魚も少しづつスレてくると掛かりにくくなるが何故か自分には定期的に魚がかかる。その様子を見ていた1~2学年上の少年が近寄ってきて、
「エサ、何使っとんのや」と聞いてきた。
この少年は少し前に隣で釣っていたが、「こっち来んな」と言い放った少年で、ちょっとクセのある面倒くさそうなヤツだった。
「みみず・・」と、とりあえず言い返してそれきりだったが、彼は
「イクラでは釣れやん」と不愛想に言った。
放流したてはイクラが良いのかも知れないが時間が経つとエサに飽きるのか喰いが落ちる。ミミズは匂いと動きで誘うので飽きられるのが遅いのかも・・・と、その時思った。
そして周りのオジサン達の仕掛けの先にはやはりイクラがぶら下がっていた。

 大会が終わり、周りの釣り人が帰って行く中でまだ粘って釣っているとそれまで釣れなかったアマゴも掛かった。
結果として勝てたわけでもなく、数匹のニジマスと2匹のアマゴを魚籠にぶら下げて帰った。
 ただ周囲の釣り人が釣れ渋っている中で1人釣れ続けた事で、エサの種類の重要さも子供ながらに感じたものだ。今では数種のエサを使い分ける事などは当たり前だが、限られた道具の中でいかに釣るか・・を考えることが釣りの想像力を増す原点かもしれない。
ちなみに、2匹目のアマゴを釣った方法は必殺の「穴釣り」だったが、それは後に書きたいと思う。 つづく

水辺の記憶-手の延長線(9

盲腸炎の試練


 小学校を卒業する直前に急性盲腸炎になり、入院を余儀なくされた。おかげで中学校の入学式には出れなかったが、それよりも悔しいのは釣りに行けないことだった。入院中の1週間は、釣りの本ばかり読みふけっていた。
 妄想癖があるのか、釣本を読んでいるとその世界に入り込み、頭の中で釣りの身支度を行い、自転車に乗り込んでいく・・・といった妄想が頭を駆け巡る。我に返り、「あ、入院中・・」とふさぎ込んだことが何度かあった。

 1週間の入院はずいぶんと長かったと記憶している。その後無事に退院し、中学校生活が始まったが、魚釣りに関してはますます加速していき、私の釣り好きは親戚中にも知れることとなっていた。

 中学1年の夏休みになると叔父叔母のはからいで従弟と共に、三河湾に浮かぶ「日間賀島」へ同行したことがあった。釣りの最中、叔父はゴンズイを釣り上げ、喜んでハリを外そうとして刺されてしまったことがあった。外道でお馴染みのこの魚「ゴンズイ」は素手で触ると非常に危険だとオヤジに口すっぱく言われていたので、叔父が握ったときには震え上がった。しかし時すでに遅く、血があふれ出ていた。

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真夏の防波堤は色々な魚種が釣れるので楽しいが危険な魚も沢山いる。ここでも渓流で活躍した磯竿を使う。


初めてのダム湖 

 同じくその夏休みの事だったと記憶しているが、鈴鹿山脈を越えた向こうにダム湖があり、鱒がいるらしい・・・との話をオヤジが話していた。ダム湖でルアーフィッシングが出来る・・・!と期待感が高まった。まだ本格的なダム湖でのルアーフィッシングは経験が無かったが、町の釣具店でやっと仕入れたまともなルアーはいくつか持っていた。
 その頃は釣具屋の店主に、「ルアーってありますか?」と聞いても、
「は?何?、るあ~?・・・」と聞き返されたりして話にならないこともたびたびあった時代だった。
 
 ともかく、親父に連れて行ってくれとせがんだのは言うまでもなく、夏休みの早朝、親父と私は例の「スズキ・フロンテ」に乗り込み、「鈴鹿スカイライン」越えを目指した。2サイクルエンジンのフロンテ7-Sは白い排気ガスを振り絞るように武平峠を越えていった。下りにかかると野洲川上流部が見えてくる。

 しばらくすると森の中にダム湖が見えて来る。気分はもうワクワクで、早く釣りたい一心だった。一部森が切れて草原になった所へクルマを停め、ダム湖を覗くとそこにはもうすでに何人かの釣り人が来ており気持ちが焦った。
 「野洲川ダム」とばれるこのダムは、滋賀県甲賀市にあり、琵琶湖へ注ぐ野洲川の上流部にある。新緑深い森の中に忽然と現れる湖は深く蒼く水をたたえており怖さを感じたが早速準備にかかると、どこからともなくオジサンが現れて親父がお金を払っていた。もちろんこのダム湖にも入漁料がいるのだ。このあたりは土山漁協の管轄である。
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初めてのダム湖でルアーを投げる。ラインは憧れの「デュポン・ストレーン」の黄色いラインだった。

 ついに記念すべきダム湖のマス釣りは始まった。この日のために買い込んだルアーはスプーンと呼ばれるまさしく「さじ」の形をした金属片。このスプーンで釣りをするのが目下の夢だった私は、焦る気持ちを抑えつつ準備し、三平よろしくシュワ~~・・・と投げてはみたものの、簡単に魚は釣れて来ない。今でも恥ずかしく思うが、当時の私は、「ルアーというのは投げてから巻いて来るときにアクションをつけながら巻かなくてはいけない・・・」と頑なに思っていた。時々アクションをつけるのではなく、始終つけっぱなしで結果、疲れてしまった。
 「ただ巻き」という、ただ巻いてくるだけでルアーまかせの釣り方があるが、まずはそっちでトライすることが先決なのに、釣本の内容丸暗記の頭でっかちが台頭していた。

 その日ルアーフィッシングではついに魚の顔は見れず、持ってきたエサ釣り用の竿でカワムツとオイカワ多数を釣って終った。
 そのときのエサも先述した小麦粉とマッシュポテトのブレンドだったことは言うまでもないのだが、なんとか手に入れたルアーでの釣りは不発に終り、それよりもルアーフィッシングの謎だけが増大した釣行だったのだ。しかし、この時使ったスプーンは何故か今でも健在で、その十数年にブラックバス釣りを始めたときにもお世話になった。
 ほとんどのルアーはいつか紛失する運命にあることが多いけれど、そのスプーンは今でも自分のタックルボックスの中で出番を待っている。 つづく

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当時から未だ現役のスプーン2個。塗装は剥げ、年季を感じるがそろそろ殿堂入りか?メーカーは謎。

水辺の記憶-手の延長線(8

担任と釣りへ行く

 話は前後することになるが、小学5年生になったときの担任は、尾鷲市出身の先生で、大学を卒業したばかりの先生だった。この先生には何度か海釣りに連れて行ってもらったことがあった。クラスの釣り好きな仲間数人で先生の愛車に乗り込み四日市方面や鈴鹿方面へ出掛けるのだ。この先生は本格的に私たちを釣りに連れて行ってくれた。

 あるときは、朝の4時に先生の当時下宿先だった「初若荘」へ集合し海へ出掛けたこともあった。大釣りしたことはあまりなかったが、四日市市の磯津漁港という場所でボラが大漁だったことはよく覚えている。十数年前、この先生を伴ってクラス会を行ったときにも、何十年ぶりにもかかわらず「お~、お前も釣りの仲間だったな!」と言っておられた。最近の先生と生徒の関係はわからないが、それも古き良き時代だったから出来たのかとも思う・・・。

初のお泊りでの船釣り

 小学6年のある日、釣友の親の計らいで伊勢方面へ泊まり釣行にご一緒させてもらったことがあった。これが初めてのお泊り釣行だ。その晩、宿でTVをつけると映画、「極底探検船ポーラボーラ」(TV放映時は、「最後の恐竜ポーラボーラ」)が放映していたことがなぜか記憶に残っている。釣りだけでなく、こういった時間も非常に楽しいものである。
 そして次の日は、釣友とその父親、釣友の伯父そして自分の4人が釣り船に乗り込み初めての船釣りに挑戦させてもらった。

 ところで釣友の伯父さんというのは、なかなか釣り歴が長く、色々と世話を焼いてくれた。自分の父親以外にここまで指導してもらった人は初めてであった。
 乗った船はリアス式海岸の内湾を暫く走り、船頭の合図で仕掛けを降ろす。何せ初めての船釣りだったので、仕掛け一式は船頭に借りた。狙う魚は『ガシラ』。カサゴだった。

 生きたカタクチイワシをエサにし、胴ツキ仕掛けを海底に投入すると魚がいればすぐにアタリがあった。アタリが無くなれば場所を移動する・・・といった感じでどんどん釣ってゆく。海底の岩場がポイントになることが多いので根掛かりも多かったが、船頭に任せれば上手く外してくれた。陸からさんざん釣っても釣れないのに、船に乗れば状況がまったく変わって良く釣れる。船釣りとはこんなにも釣れるものかと感心したものだ。このように小学6年になった頃は海に山に釣り場は広がり、様々な釣り方を楽しんでいった頃だった。


鯉の釣堀

 昭和51年頃、自宅から30分ほど走った鵜川原地区にコイとヘラブナの釣り堀があった。「鵜川原釣り池センター」だったと思うが今はもう営業してはいない。中学に入ってからのめり込んだヘラブナ釣りの基礎を勉強した良い釣り堀だった。

 そこのヘラブナ釣りの専用池は常にベテラン釣り人でいっぱいだったので、なかなかその中に入ることには勇気がいったが、併設するコイ釣り場は比較的空いていて子供でもゆっくりと出来る雰囲気だった。しかも自分の竿を持ち込むことができたので、竿に慣れるにも便利が良い。それでも簡単に釣れるわけでなく、一日に3匹釣れれば良いほうで、釣堀とはいえなかなか上達はしない。

 ある日、いつものように糸を垂れていると、見知らぬおじさんが近寄ってきて私の釣りを見学していた。おじさんはしばらく見ていると、私にこう言った。「坊、もっと魚を寄せてから釣らなアカン」。
 えっ?と思っていると、おじさんはエサ箱の中に手を突っ込み、練りエサを一掴み握ると、それを掴んだまま池に手を突っ込み、手のひらの中で溶かしはじめた。その周りだけ水は濁り、エサがバラケながら溶けてゆく。
 「こうしてな、水に溶かしたエサでコイを寄せるんや」。
 おじさんはしばらく水中でエサを揉みながら手の中から溶かしていった。溶けて無くなるとまたエサを一掴み取ると同じことを繰り返していった。
 3つほどのエサのかたまりが溶けてなくなる頃、おじさんは、
 「よー見てみぃ、水面がもわもわぁっとしとるやろ。コイが寄ってきた証拠やわ・・・」と言った。たしかに溶かしている場所の少し先で水面に揺らぎがあった。まさしく、大きなコイが尾びれで水中を煽っているようである。
 おじさんは、「もうエエやろ・・竿貸してみぃ」というと私の竿を使ってあっという間にコイを釣り上げた。
 釣り上げたコイの針を外しながら、「ほれ、やってみぃ」と言って竿を渡した。先ほどまで私は2mちょっとのグラス竿を使って腕一杯沖へ投げる釣り方をしていたのに、コイを寄せた場所はほんの足元だ。そこへエサを振り込み、しばらくウキを見つめるとモゾモゾとアタリがあり、ウキは消えた。すかさず竿を立て合わせると、重い引きが手元に伝わった。
 「どや?こやってしっかり寄せてから釣るんやゾ」と言うとおじさんは満足そうにその場から去っていった。

 しばらく魚は釣れ続いたが、またアタリが遠のいてきた。するとまたおじさんはやって来て、
 「こやって寄せなあかんぞ」と言って寄せてゆく。おじさんは上手く寄せることがたくさん釣るための第一条件やと言ってまた去って行く。その日はぼちぼちと釣れたが爆釣ではなかった。しかし、後日、寄せる方法をマスターしてからは、まさに爆釣で、魚を寄せてから釣り始めるといった事の重要性を覚えた。

 その後も何度か通っては時折そのおじさんとも会話したりしていたが、いつかその釣堀からも足が遠のき、やがていつの頃からか営業もしていなかった。思うに、そのおじさんはヘラブナ専用釣り池の常連だったのだろう。小学生の高学年の頃に一時的にはまったコイの釣堀ではあったが、そこで覚えたことはその後の釣り方にも大きく影響を与えていたと思う。つづく

水辺の記憶-手の延長線(7

小さな渓流でメタルジグ?

 

 

 昭和51年頃、近所にあったスーパーマーケットに何とルアーが売られていた事があった。しかも文具売り場の一角に陳列してあったのだ。ルアーに関しては漫画・釣りキチ三平で知っていたが、まさかスーパーマーケットでお目にかかれるとは思っていなかった。色違いの5個セットになっていてケース入り。値段の方は小遣いではどうしようもなかったので、物凄い勢いで親にねだって買ってもらった。
 
 売っていたルアー、ひとつはブレードの回転するスピナー。もうひとつは平べったい魚の形をしていたので「スプーン」かと思ったが、特徴であるヒネリがない、しかし「プラグ」でもなかった。プラグにしてはリップも無いしそれ自体かなり重そうだった。
 ずっと後で分かった事だが、その見たことのないルアーは「メタルジグ」で、今思えばウエイトも何も表記がなく5色の色分けされた綺麗な金属片だった。そしてそれは主に船の上から投げたり、砂浜から遠投したりして使う豪快な海のルアーのはずだった。

 

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当時のスピナーとタコベイト、自分にとって現存する最古のルアーだ。スピナーのフックは変えてあるがタコベイトのそれは当時のまま。(メーカーは不明)

 スピナーに、メタルジグ。凄い取り合わせだが田舎ではルアーさえも物珍しいこの時代、散々迷った挙句、手にしたのは憧れの「スプーン」に似たジグの方。
今おもえば大失敗。海に近い場所ならわかるが、狭渓流の釣りにヘビーなメタルジグはやっぱりヘンだ。(今では渓流対応のジグもあるらしいが)

 

 それでも次の日の早朝、このルアーの泳ぎを試したくて、先述した浄閑(観)池へ行って投げてみた。飛距離は出る。しかしドボンと落ちることに一抹の不安を感じながらも次の休みに渓流へ出掛けることに決めていた。

 

 ところで当時、一緒に釣りに出掛けていた友人がいたのだが、彼も同じく親に頼み込んでルアーを手にした。彼はスピナーの方を選び、1個だけ取替えっこをした。実はスピナーの方が渓流のルアーとしては定番だった事がこの頃の自分には分からなかった。
ともあれ、ルアーを手にしてしまった少年達の興奮度は絶頂に達する

 次の週、湯の山温泉地内を流れる三滝川へ出掛けた。ルアーフィッシング自体始めてならルアーロッドなどまだ持っているはずがない。私は父から借りた短めのリール竿(といっても3mはある)に、釣友は船竿。ウェーダーは無い、代わりに長靴を履き、勇んで渓谷へ駆け下りた。

 

 エサ釣りでは渓魚を釣った経験があったのでポイントは大体分かっていた。そして、見つけた小さな落ち込みを狙いルアーを投げた。しかし、繊細とは程遠く、「どっぼん・・・!」という音とともにメタルジグは一瞬で底まで沈んでいった。
 慌ててリールを巻き始めるが、いきなり根掛かりしてしまい大切なルアーが無くなっては大変・・・と、糸を手繰って水中に手を突っ込み、なんとか回収に成功したが、ポイントは台無しだ。釣友も似たようなもので私より多少マシなくらい・・・。

 

 彼のスピナーの方が渓流に向いていたのは、それ自体が軽く、ブレードが回転すれば浮力が出て操作性はメタルジグよりはずっといい。自分がメタルジグ(そもそもメタルジグ自体知らなかったが)を選んだことを後悔した。それでその日は全く釣りにならず、勇んで家を出てきた手前ボーズでは格好がつかないということになり、湯の山水産センターでニジマスを2人で1匹づつ釣って帰った。

 

 実はこの時、「渓流でのルアーフィッシングとはどういった釣り方をするのか?」ということを我々は全く知らなかった。「投げて巻けば良い」ということしか頭に無かった小学生だった。
 その後、先のスーパーマーケットに新たに入荷したスピナーを手に入れ、また、懲りずにタコっぽいルアーまで購入した。(上記の画像)スピナーはまだしも、それが「タコベイト」だと気づくにはまだ少し時間が必要だった・・・しかし、その後もそれらが渓魚の口を捉えることは無かった。

 

 当時、釣り本や漫画の中でしか見たことのない「ルアー」というものが本当に珍しかったので、目前に陳列されていたモノに興味を惹かれてていくのも致し方ないのである。 つづく

水辺の記憶-手の延長線(6

田んぼキャスティングの末路

 竿には「負荷何号」と、いった表記がしてあるので、その範囲内のオモリならば普通の使用ではまず折れない。しかし、それまでに弱っていた可能性が高い。原因は、田んぼ練習だと思うのだ。
 冬の田んぼには水は無いが、ドロが固まった状態なので、そこにオモリが突き刺さって抜けなくなることがよくあった。そして刈り取られた稲の根元部分に絡みながらドロへ突き刺さるとなかなか抜けなくなる。そうなると竿をブンブンとあおったりして抜いていたので、それがもとで竿が痛んでいたのでは・・と思うフシがある。今ならそんな雑な事はしないだろうが折れてから後悔した。
 
 竿が折れた事はまったく想定外で、呆然としてしまった私は家に帰り父にこの事を話した。てっきり叱られるかと思っていたが、後日あっさりと修理の完了した竿が出来上がって、3.6mの竿は3.2mくらいになって直っていた。すごいと思ったが、今でもどう直したのか分からない。


海釣りデビューの頃

 小学校の高学年の頃は、淡水、海水と様々な場所へと釣りに出掛け始めた時期で、比較的山の近い地域で育ったせいか、海への憧れは大きかった。この頃は父親に連れられて、海の夜釣りにも出かけて行くようになっていた。
 場所は四日市市の三部突堤。ここは今でも有名な突堤で、夏の夜のチヌ釣りにはもってこいの場所で、初めて海釣りをしたのもこの場所だった。

 父が夜釣りに行った翌朝に冷蔵庫を覗くと決まってりっぱなチヌが入っていることが多かった。当然連れて行ってもらうよう頼んで、高学年になりやっと連れて行ってもらうようになる。
 
 自宅からクルマで1時間ほどかかる距離を走り、途中で釣具店に立ち寄りエサの調達をする。
 夜釣りのエサは決まって「ミノムシ」だった。フクロイソメともいわれるこのゴカイに似たムシエサは、夜間水中で光るそうで、夜のチヌ釣りには最高のエサといわれていた。時折入荷しない時もあり、別の釣具店へ探しに行ったり、それでも無い場合はチョウセンゴカイ(アオイソメ)で代用していた。

 結局自分は良い型のチヌには恵まれなかったが、チンタ(小型のクロダイ)クラスを釣ったり、セイゴ、メバルなどに遊んでもらえた程度だった。
 また、ここは夏になるとサバの回遊があり、家族総出で出掛けたこともあった。サバ釣りのエサは生イワシの切り身が最高で、魚の引きは強く、夏から秋にかけては非常に面白かった。
 ただ、群れが来ないとまったく音沙汰なしで、釣れ方にはムラがある。しかし釣り自体は簡単で、「群れ」が来て「棚」さえ合えば子供でもウキを付けてほおっておけばよかった。掛かればウキは面白いように沈み込み、竿が満月のように曲がってくれる。妹や母でも釣っていたのだから気楽に楽しめた。
 思えば、数少ない母が同行した釣行の中で、母が魚を掛けた場面はなかなか貴重で、竿を満月にしならせているシーンは良い思い出である。   つづく


 

水辺の記憶-手の延長線(5

ミミズ探索

 その頃、渓流へ出掛けるときのエサといえば、「ミミズ」が一番多かった。シマミミズと呼ばれるやや小ぶりのミミズでどこにでもいたのだが、当時の同級生に秘密のミミズ捕り場をこっそりと教わってからは、そこへ足繁く通うようになった。
 そこは、くず野菜やタマゴの殻などが山積みとなっていた人家の裏手にある畑で、スコップでひと堀りすればミミズの固まりがザックザクと出てくる。それをエサ箱へ詰め込み、そそくさと去ってゆく。

 その後、「ここならいくらでもおるよ!」と初めて父親をそこへ連れていったときは、「人の畑はいかん」、とたしなめられた。
今では釣具店で養殖ミミズが買えたり、渓流釣りの盛んな地方では自動販売機でミミズが買えたりする。。。しかし畑で捕った天然ミミズの色艶と香り(?)は、アマゴやイワナ釣りなどのエサには最高だろう。


釣りに「投げる」ということが加わる

 少し前後するが、小学5年生の頃に漫画・釣りキチ三平では「第8章・シロギスの涙」が連載中であった。主人公・三平は、海の投げ釣りに挑戦していくといった内容だった。私はその中で初めて、オモリを『投てき』してその距離を競うといったキャスティング競技の存在を知った。

 新しいモノ好きの性格にはこれが気になって仕方なく、貪る様に漫画の中の知識を詰め込んだ。結果、クリスマスやお年玉は「投げ釣りセット」となって手に入れた。そのタックルのほとんどはその昔、四日市市内にあった天狗堂という釣具店で購入したものだ。

 手に入れたものは早く使いたくて仕方がない。「試し投げ」をするため、手始めに近所の田んぼへ出かけると、すぐにスピニングリールをセットし、3.6mの投げ竿をのばす。そして道糸を通し、オモリを結んだ。
 漫画で習ったように左手は竿尻に、右手はリールからの糸を人差し指に引っ掛けて後方へオモリを置く。剣道の上段から振り下ろすように一気に振りぬいた。人差し指に引っ掛けておいた道糸は上手く指を離れ、オモリは冬の空へ舞い上がった。最初オモリは勢い良く飛んだが、徐々に失速して弧を描いて落ちてくる。それと同時に手元のスピニングリールのスプールから糸が膨れ上がってエライ事になってきていた。

 これは糸を引っ張り出す勢いが飛距離とともに弱まって行くのに反して、リールのスプールの回転が初速のままのスピードで回転し続けるために起る現象でバックラッシュとよばれるが、実はその時、まったくスピニングリールの扱い方を知らなかった。
 どういったシステムでスピニングリールは糸を出すか知らなかった私は、今思えばなんと無知で無謀だったことか・・・。それまで両軸受けリールしか使った事がなかった私は、糸はスプールが逆転して送り出すものが全てだと思っていた。加えて言えば、『力糸(ちからいと)』の存在も知らなかった。オモリに結ぶ部分が一番太く、徐々に細くテーパーのついた構造の力糸と呼ばれる道糸のことを知ったのもこの後ぐらいからだ。いや、正確には知っていたが別に必要ないと思っていたフシがある。

 力糸の必要に気づいたのは、投げる瞬間の糸切れが頻発した(非常に危ない)事と、飛距離の問題だった。
当時スプールに巻き込んであった道糸のサイズは5号。淡水での小物釣りしか知らない私にとって5号は凄く太い糸だった。しかし、15号や20号のオモリを投げる際にかかる瞬間的な負荷はいったい何キロになるのだろう、ましてや痛んだイトとなると・・・。釣りキチ三平にもこの事は書いてあったはずだが、今考えれば無知とは恐ろしい。
 その後、田んぼキャスティングに何度か通いリールの扱いにもやや慣れてきた頃、投げた瞬間に道糸を引っかけていた人差し指が摩擦で切れたことで軍手をはめるようになる。

海で投げる

 満を持して投げ釣りの実釣は年明けに行われた。場所は朝明川の河口部にある高松海岸といわれる浜だった。今では春の潮干狩りに有名な場所となっているが、この日は近くに住む親戚の叔父の案内で出掛けたと記憶している。
 エサはゴカイを持っていったが、叔父がどうしても現地で捕れるゴカイがよいと言うので、大きなスコップを持参した。先述の畑のミミズの件もあるので叔父の言う事ももっともだと思ったが、何故かその日は全く捕れず、持参したゴカイ(ミズゴカイ)を使った。

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凪いだ海は釣れる気はしなかったが気分は三平だった。

 田んぼ練習のせいか、多少は投げることが出来るようになったので釣りにはなった。が、魚は全く釣れずボーズで終ったことはしっかりと覚えている。エサのミズゴカイも竿を振り切った直後に勢いで千切れて飛んで行くことも分かった。針持ちのよいエサを使うことも大切だと身を持って勉強した。
 この日の釣りは今でも良く記憶していて、父と叔父と妹と今は亡き母。それと「ちび」という雑種犬がいた。魚は釣れなかったが良い思い出だ。
その後も田んぼ練習にはよく出掛けていたが、ある日力任せに投げた瞬間、ボキッっという音とともに投げ竿が真ん中から折れた。つづく

水辺の記憶-手の延長線(4

初めてのアマゴ

 

 ある休日の昼間、父親の運転する軽自動車に釣り道具を積み込み、朝明川の上流部をめざした。渓への道はまだ舗装されておらず、雨降りで出来た水溜りの窪みのせいで道はガタガタ。360ccの軽自動車スズキ・フロンテはなんとか登っていくといった感じで進んで行く。
 ある支流へ着いて釣りを始めるも、イマイチ釣り方が分からない。父親は、「自然にフカセろ」という。フカセるとは、糸に弛みをもたせ、流れのままにエサを漂わす・・といった意味合いだったが、子供の私にはよく理解が出来ていない。父親の釣り方を見様見まねで釣り始めた。

 

 ところが糸に弛みがあるのでアタリがあるのか無いのか全く分からない。比較的小渓流の朝明川のそのまた支流は、木々の茂る時期なら藪沢となるくらいの小さな川だ。ポイントも限られており、父は釣り場を私に譲り離れた所で見ているようだった。しかし、なかなか魚を釣ることが出来なかったので少々飽きてきた。
ちなみに当日、私が使っていた竿はなんと4.5mの磯竿。むろんリールは付けてなく、トップガイドに直接道糸を結んでいた。その川で丁度良い長さの竿が無かったためである。でも非力な小学生にグラスファイバー製の4.5m竿は少々重すぎた。腕が疲れてきたので糸を弛ませたまましばらくほおっておくことにした。

 

 少しおいて何気に竿を立てたら竿先に生き物の感触が伝わって、小さなアマゴが上がってきてびっくりして手に取ると、初めて釣ったアマゴは小さい魚体を震わせながらも口にはしっかりとエサのミミズをくわえているではないか。小判型のパーマーク、朱色の斑点、どれをとっても渓流の女王と呼ばれるにふさわしい、それは魚体だったことを鮮明に記憶している。

 

 初めて釣ったアマゴに少々興奮状態であったが、釣り方をかえりみると、『糸は完全にふけていた』。これにつきる。ただ、いつ魚がエサをくわえたのかさっぱり分からないので、竿の上げ時がつかめなかった。先ほどの魚はずっとエサをくわえていてくれたが、もし、口先で摘むだけだったらアワセを入れなければ針掛かりしないだろう。かといって糸をピンと張っていればエサの食い込みが悪くなるだろう・・・・なんて様々なことが頭を巡った。

 

 しかし、とりあえず釣れたのだから同じ方法を続けることにしてみると何と、また釣れた。ただ、竿を上げるタイミングが全くデタラメで、子供ながらやっぱりオカシイ・・・?、と感じた。

 

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78頃、手に磯竿。足元が裸足なのはハマったのでずぶ濡れなのだろう。。

 

 

 

 さらにもう一つ、酷い釣り方を考案してしまったことがある。それはこうだ。
 やや重めのオモリを付けて「落ち込み」付近にエサを沈め、底にエサが届いた頃、流れよりもやや早めに底を引きずってくる・・・といったものだ。食い気のある魚がいた場合、直接アタリは手に来る。そこでおもむろに竿を立てれば釣り上げることが出来る・・・といったあんばいだ。釣りの達人が聞いたら憤慨して卒倒してしまうような釣り方だが、私は実際この釣り方で何匹かのアマゴを釣っていた。

 

 あまり格好の良い釣り方ではないが、この「引きずり方式」は、エサ釣りをやっていた頃にかなりヤリ込んだ釣り方である。
こうしてめでたく初めてのアマゴとの出会いをしてからは、こんなちょっと怪しい釣り方を考案しては渓へ行くようになる。 つづく